御殿山渚商店会
人・歴史・アート
枚方市立御殿山生涯学習美術センターは、戦前この地にあって多くの画人を輩出した大阪美術学校跡地を活かし、昭和62年(1987年)にオープンしました。
市民の自発的な学習活動に施設を提供し、芸術等の文化活動や地域のコミュニティ活動の活性化を促進することを目的としてます。
また、この御殿山生涯学習美術センターは、創作室を備えた「市民のアトリエ」として開放されている施設で、一般市民に広く美術の制作及び鑑賞の機会を提供してます。
(京阪電鉄 御殿山駅から東側駅前広場の道を直進、約150m程先の坂道中ほどを左へ 徒歩10分)
ホームページはこちら⇒御殿山生涯学習美術センター
御殿山神社は、元は渚院跡の観音寺境内に設けられていた
小倉の粟倉神社のお旅所であった。
明治初年の神仏分離令によって明治2年(1869年)御殿山に社殿を造営、翌年当地に遷宮、御殿山神社と改称し、
現在に至っている。
御殿山の名は江戸初期、領主 永井伊賀守がこの山に陣屋を設けたところから、呼ばれるようになったと言われている。
(京阪電鉄 御殿山駅から東側駅前広場の道を直進、約150m程先の坂道中ほどを左へ行くと御殿山生涯学習美術センター
があり隣 徒歩10分)
渚院跡
渚院は、文徳天皇の第一皇子で不遇の皇子などと称される惟喬親王が交野ヶ原での遊猟などに用いた別荘です。
惟喬親王と共に遊猟した在原業平は渚院の桜をみて「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」の句を詠みました。
紀貫之も「土佐日記」に淀川をさかのぼり京に帰る途上、渚院のことを偲んで記しています。
後に渚院跡には観音寺が建立され、十一面
観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、鐘楼と梵鐘が残されました。
(京阪電鉄 御殿山駅から、東側駅前広場の道を左折、5叉路
の先 徒歩15分)
白雲寺
当山は もとは南寺と称し真言宗であったが、文治年間(1185~90年)信寂上人が法然上人に帰依して改宗、
弁誉上人のとき知恩院末寺となった。
当山の詳しい来歴などは、大阪の陣での兵火に遭ったことに加え、寛文年間(1661~73年)の火災で堂宇や古記録が焼失し、詳細は不明である。
山門をくぐったところにある地蔵堂に祀られている地藏尊は
「裏の地蔵」と呼ばれ、もとは禁野浦の野原にあったものを万治2年、御殿山の西方に移し、明治33年頃、当寺の境内に移した。伝教大師の作くとも伝えられ、地元の人の信仰が厚いという。
(京阪電鉄 御殿山駅から東側駅前広場の道を左折約150
m程行くと5差路あり、右(狭い道)へ曲がる 徒歩10分)
西雲寺
当山は 寛永7年(1630年)超誉存悦上人の開創で、もとは小山寺という真言宗の寺院で、弘法大師座像が伝わる。
5代住職随誉上人が21年間の在住中に寺容を整え本堂、庫裡を建立し、寺号を西雲寺と改称した。
17代住職行誉上人は、享保2年(1717年)に来院し在職21年、この間に本堂や庫裡を改築、観音堂を造営、中興の人と呼ばれる。
境内観音堂には(明治22年)までも渚の院跡にあった観音寺の本尊であった十一面観世音菩薩が安置されている。
周りには西国三十三所の観世音が設置されている。
(京阪電鉄 御殿山駅から東側駅前広場の道を左折約150m
程行くと5差路あり。「渚の院跡」の方向へ、「院跡」の4つ辻
を東へ入る 徒歩15分)